小林正観さんの数々の名言を指針にして私は日々を過ごしています。
自分がどういう方向に進んでいけば分からないときに、本日ご紹介する正観さんの言葉に助けられました。
人間が生きる意味は、「人に喜ばれる存在になる」ということ。
小林正観さんとはどんな人?正観さんプロフィール
そもそも、小林正観さんのことをまだご存知でない人もいるかもしれません。
正観さんのプロフィールを簡単にご紹介させていただきます。
1948年東京深川生まれ。
心学研究家。コンセプター。作詞家&歌手。
デザイナー(SKPブランドオーナー)。
潜在能力研究家でもあり、学生時代より人間の潜在能力やESP現象・超常現象に興味を持ち、旅行作家のかたわら研究を続ける。
旅の宿では頼まれ事で、宿泊客の「人相手相」をみて人生相談を受けることもあり、正観さんが来るという情報が流れるとたくさんの人が集まり行列ができた。
そうしているうちに友人、知人からの講演依頼が増え、年に300回以上、講演の予約は2年先まで一杯になり、全国各地を回る生活を続けていくことになった。
人に「うれしい・たのしい・しあわせ」と喜ばれる存在になろうと唱え(宗教者ではない)、正観さん自身も日々実践をしていた。
コンセプター(基本概念提案者)としても 「ものづくり」・「人づくり」・「宿づくり」・「町づくり」 などに関わっていた。
2011年10月12日永眠株式会社SKPのホームページより引用させていただきました。
いつも優しくどんな質問にも答えていただき、心から感謝しています!
小林正観さんの「喜ばれる存在になる」という言葉の意味
小林正観さん曰く、人間が生きる意味というのはとってもシンプルなのです。
私がずっとずっと、考えていたこの「テーマ」を正観さんは一言で言い切りました。
人間の生きる意味は喜ばれる存在になること。
【大切なことは「学ぶこと」ではなく「実践すること」】
お釈迦さまが弟子たちに、次のような「たとえ話」をしたことがあるそうです。
20歳くらいの若い僧侶が、滝に打たれたり、山にこもりながら、熱心に修行をしていました。
その様子を見ていたひとりの女性(数ヶ月前に夫を亡くした未亡人)が、彼にこのような提案をしました。
「お坊さま。うちは庭が広いので、草庵(草ぶきの小さな家)をひとつ建てさせていただきます。そこで修行されたらいかがですか?」
若い僧侶は申し出を受け入れ、「ありがとうございます。では、そうさせていただきます」と喜びました。
未亡人には5歳の娘がいたのですが、15年間、娘が僧侶に食事を届けました。
娘が20歳になったある満月の夜に、未亡人は娘にこう言いました。
「もしおまえがあの僧侶に惹かれているなら、今夜、あの人に、打ち明けてごらんなさい」
そして、娘は僧侶に気持ちを伝えました。
しかし、僧侶はこう答えました。
「清らかな川の流れに泥の1粒、汚れた葉っぱ1枚が乗っかったところで、清らかな水の流れは変わらない」
すなわち、この僧侶は、
「私の清らかな心は、女性の存在には惑わされない。どんなに好きだと言われても、修行を変えるつもりはない」
と断ったのです。
涙を流す娘を見て、母親は烈火のごとく怒りました。
そして、草庵を焼き払い、僧侶を追い出したそうです。
この「たとえ話」を引き合いにお釈迦さまが論及したのは、「未亡人の荒れ狂った行為」に対してではありません。
修行中の僧侶の未熟さに対して、です。
お釈迦さまは、
「なぜ、この僧侶は娘の行為を受け入れなかったのだ。
私たちが仏法の修行をするのは、まわりの人をひとりでも多く幸せにするためだ。
この僧侶は、いったい誰を幸せにしたのか。
この僧侶がすべきことは、この人たちの愛情と、優しさと、恩義を受け入れて、この人たちを幸せにしてあげることだった。
娘の好意を受け入れ、結婚して、この母親に親孝行をしたら、みんなが幸せな人生を送ることができたであろう・・・・」
と言ったそうです。
15年間修業をしても、「誰も幸せにしていないなら、何もしていないのと同じである」とお釈迦さまは考えたのでしょう。
仏法の戒律は、女性を近づけてはいけない、女性に触れてはいけない、とは必ずしも言っていないと思います。
もし、本当に好きだったら、「じゃあ、私は仏教を捨てます」と還俗(げんぞく)してこの娘を嫁にめとり、夫婦として生きればいい。
娘や母親の好意を受け入れ、「喜ばれる存在」になればいい。
それこそが、仏法を学んだ人の「悟り」だと思います。
どんなに立派なことを知っていても、社会に対して投げかけも働きかけもしない。
誰一人として幸せにしない。
ただ、自分のわがままだけで立派なことを考えていた。
そのわがままの結果として、娘は悲嘆の涙にくれ、母親は激怒し、自分は住まいを失って流浪の身になったのです。
これは、お釈迦さまの「教えの深さ」がわかる話です。
一番大切なことは、「学ぶこと」ではありません。
「喜ばれる存在」になるために、「実践すること」なのです。
出典元:ありがとうの奇跡(ダイヤモンド社・2016年)/ 小林正観 著/ P.204~P.207を引用
小林正観さんが悩める人々に伝えたかった言葉!
う~ん。深い話です!
この「たとえ話」は、とっても考えさせられますよね。
規則やルールを重視し、仏法の教えに従順であればあるほど、僧侶のとった「選択」は正しいものと思われます。
だから決して、僧侶の選択は間違っているわけではない、と個人的には感じます。
ただし、小林正観さんは、
人間がこの世に生を授かったのは「喜ばれる存在になる」ためだと、常々語っています。
それが真理だとすると、娘さんや母親の好意を受け取るという「選択」を選ぶべきではなかったのか、ということです。
僧侶にとっては、瞑想にふけったり、滝に打たれたりすることが「修行」でした。
それでは私たちにとっての「修行」とはいったい何なのでしょうか?
それは、、、
いつもの日常
が、私たちの「修行」そのものなのです。
毎日、生きているといろいろなことが起こります。
職場の人間関係で悩まされたり、仕事でトラブルが起こったり、子どもが全く言うことを聞かなくてイライラしてみたり・・・・
そういう「いつもの日常」こそが修行なのです。
そして、その中で私たちは
「喜ばれる存在」になるために
この世に生を授かり魂を磨いているんだと、小林正観さんは伝えたかったのです。
いつも笑顔でまわりの人に安心感を与えてあげる。
落ち込んでいる人に「大丈夫ですよ」と声かけをして励ましてあげる。
仕事で苦戦している人がいたら、自分に無理のない範囲で手伝ってあげる。
などなど、自分が「喜ばれる存在」になるためのチャンスは日常にゴロゴロと転がっています。
いくら滝に打たれたり、山にこもって瞑想したり、たくさん読書をしていて博識だとしても、実際に人に「喜ばれる存在」でなければ、何の意味もありません。
人に喜ばれなかったり、人の役に立たないのならば、滝に打たれて鍛錬しても仕方がないのです。
大切なことは、人に喜ばれる存在になるために、与えられた命を使うこと。
そんなふうに命を使っていたら、間違いなく、周りの人や神様に愛される存在になっているし、「喜ばれる存在」になっていきますよね。
どこかで身につけてきた常識や価値観に縛られることなく、マニュアルなんかを超えた部分で人に感動を与えたり、喜ばれる存在を目指しましょう!
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どうもこんにちは!
サイト管理人の心理カウンセラーmasaです。
私は母親の病気の介護をきっかけとして
自分の人生を見つめざるを得なくなり、
もがき苦しむ中で、心理カウンセラーになりました。
30歳前後まで、私の人生は
どん底、かつ、ボロボロの人生でした…
あるきっかけがあり
自分の「生きる意味」に気づいてからは
ここ10年で2000冊以上の自己啓発書を読み、
現場にて7100人以上の人との対話をさせていただいてます。
自分の苦しかった時期、そしてクライアント様と話していると
「もっと知識があればそんなに苦しまなくてすむのに・・・」
ということを今まで何度も感じてきています。
知識は力です。
無知はコストです。
考え方や捉え方(解釈)を学ぶことで
人生は結構、簡単に変えていくことができます!
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